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HISTORY

明治35年(1902)~明治45年(1912)

古澤書店設立 創業のころ

明治35年(1902年)2月、古澤安太郎が、駿東郡沼津町上土152番地の場所で『古澤書店』を開業。
古澤書店は50坪ほどの店舗と蔵のついた店であったというから当時としてはかなり広い店舗であった。
書店といっても当時はまだ出版物も少なく雑誌の種類も少ない時代だった。
本を読む人は限られた人々であったため、店で売れる本は少なく、学校の教科書や教材、工作の材料、運動具の外商活動も積極的に行ってきた。

明治44年(1911年)5月、創業者の安太郎が32歳の若さで急逝したため、弟の古澤林作が後を継ぐこととなる。
当時のマルサン書店は外商が主力で経営を支えており、林作の出身校である韮山中学校(現韮山高等学校)へ、週に一度沼津から出張し〝ミニ書店の売り場〟を設置していた。

雑誌の委託販売制度は明治42年(1909)に実業之日本社が『婦人世界』新年号の発売にあたって実施したのが最初である。

大正元年(1912)~大正15年(1926)

基盤づくりの時代

大正期に入ると店で働く店員も増え店の経営基盤も固まりつつあった。
当時の店員は全員住み込み制で、店の二階で寝起きし寝食を共にしていた。
当時の労働時間は長く休日も少なかった。配達する時の乗り物は〝自転車〟が殆ど、量の多い時はリヤカーが使用され、体力による労働であった。
西浦村の江梨地区の分校に行くと、当時はまだ自転車が珍しく、自転車を見るために子供たちが集まってきたという。
大正2年(1913)3月3日、ひな祭りの日に沼津の大火災によって市街地の主要部は殆ど焼失、古澤書店の店舗(住居)も灰燼に
帰してしまった。 新学期を目前にしていた時で、教科書が倉庫に満配であったため甚大な損害をうけた。
大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発して、経済的に空前の好況を招いた。その年、大日本雄弁会講談社から『少年倶楽部』が創刊。4年に『講談倶楽部』が創刊された。
6年には、『主婦の友』が創刊。主婦の友は、月160万部という驚異的な部数を発行し婦人雑誌の時代を創り出す結果となった。
大正12年(1923)7月に沼津町は楊原村と合併して沼津市となった。この年の9月に関東大震災があった。
その三年後の大正15年(1926)12月に、沼津の末広町から出荷した火事が燃え広がり大手町の市役所、警察署、郵便局等の官庁が類焼し、古澤書店の倉庫にあった教科書も消失した。
二度目の火災による災害である。
 大正時代は、デモクラシーの思想の広がりと共に出版の活動も活発となり、読書人口の増加と併せて、出版物も普及してきた。

昭和元年(1926)~昭和19年(1944)

世界恐慌と戦時体制下での進展

ニューヨークで始まった株価大暴落の大恐慌の波は日本にも押し寄せた。                            

 昭和5年5月、静岡市に合資会社五盟書院が発足し、静岡県内の教科書供給業務に一層の円滑をはかることとなる。
不況の波は地方の書店にも大きな影響を与え、経営を圧迫してきた。
昭和6年(1931)に満州事変がおこる。この頃から国の政治色や教育面に軍事色が強まってきた。
この年の『少年クラブ新年号』に〝のらくろ二等卒(田河水泡)〟の漫画が連載された。
昭和9年(1934)3月に街の三軒の書店『古澤書店・博文堂書店・大庭至誠堂』が合併し、合資会社マルサン書店を設立した。
(レジスター230円、自転車135円、机10円、陳列台800円。上土の本店/岳南デバート内に出店)
翌年の昭和10年(1935)に沼津市通横町へ移転した。
当時は、毎朝沼津駅に届く雑誌の運搬作業の仕事が男子従業員の仕事の中にあった。
雑誌は紙で梱包されて毎朝客車便で沼津駅まで送られてきた。市内の各書店はその荷物を取りに行くために、リヤカーと自転車を走らせて駅までかけつけた。
駅の荷物の受け渡し所で本屋間の荷物争奪戦が毎朝繰り広げられ、一刻でも早く自分たちの店に運んできて、客のところに配達をしていたようである。
雑誌は、そのように毎日国鉄の客車便で輸送されてきたが、書籍は釘付けされた頑丈な木箱に入れらてきた。木箱は鉄道の貨物輸送で送られて、駅から店まで荷物用の馬車に乗せて運ばれてきた。
箱入りの立派な装丁で人の手間をかけて作られた本が多かったからか、本はとても大切に扱われてきた。
昭和11年(1936)7月 日中戦争勃発。国内では5・15事件、2・26事件の軍部のクーデターを通じて軍部の政治支配が強まってきた。
昭和15年(1940)内閣情報局の監督のもとに出版業界の再編成が行われ「社団法人日本出版文化協会」が設立。
昭和16年(1941)太平洋戦争開戦。
出版業界は「日本出版会」が発足。取次業界にも、日本出版配給株式会社が誕生し、日本における全出版物の一元的な配給期間となった。
国の管理下におかれ、完全に徹底した出版統制下に入った。また、用紙不足などで雑誌の合併や減頁が目立ち、印刷工員の不足で出版活動が停滞し、戦局が悪化してくると雑誌の統廃合や休刊が著しくなった。
書店の従業員も、徴兵や徴用によって、戦場や軍需工場に強制的におくられ、商品の不足と共に働き手も失い営業活動に大きな支障をきたした。

昭和20年(1945)~昭和29年(1954)

敗戦による打撃と新出発

昭和20年(1945)3月10日 東京大空襲があり、4月1日に米軍が沖縄に上陸した。
4月11日の昼頃、B29一機が東から沼津上空に飛来して爆弾を投下。その一発が店舗の隣家に落下。幸いなことに店舗の被害は軽微ですんだ。
この日の爆撃は、通横町・下河原・吉田町に落下。14人の死者と39人の重軽傷者を出した。
7月17日は、沼津市がB29爆撃機130機の編隊による大空襲をうけた。
沼津市は空襲により、都市面積の89.5%を破壊された。
店があった焼跡は、木造と土蔵造りであったために殆ど建物は崩れ落ちてしまった。
やがて四坪程の小さなバラックの店を焼け残った蔵の前に建て復興の第一歩を踏み出すことができた。
創業期から書店経営の中で文房具と運動具を一緒に販売してきたが、戦後は「本」の販売一本に絞って出発することとなった。
出版活動もゆるやかであるが回復し、教科書も新聞を折りたたんだような貧弱なもので、戦時下での不適当な内容の箇所は、墨で塗りつぶした急場しのぎのものであったが、販売できるようになった。
戦後は、東京の取次から送られてくる仕入れの本では部数が少なく、それを補うために列車に乗って上京し、直接出版社や取次に行って現金で買ってきた。
買った本はリュックサックに山のように詰め込んで背負い、大混雑の列車で運んだ。
他に輸送手段がなく、人力に頼る方法しかかなった。
そうして仕入れてきた本は、その翌日には殆ど売り切れてしまった。
こんな売り手市場の状態が数年続いた。人々は食料や衣料ばかりでなく、活字や知識に飢えていた。

昭和21年(1946)店舗を新築し10月22日に開店をした。
昭和22年(1947)4月、国の教育制度大改革によって6・3制(新制中学発足)が開始された。
昭和25年(1950)外商にダイハツのオート三輪を導入!! (社員数 男7人/ 女5人)
         6月25日朝鮮戦争が勃発、戦争の兵器や軍需物資の特需により日本へ高経費をもたらした。
                         12月古澤嗣郎(24歳)共同代表就任
昭和29年(1954)5月1日 新店舗 開店(戦災復興の土地区割整理事業のため)

この当時の【検定教科書の供給】
当時のマルサン書店の受持学校は、小学校: 沼津第一・第四・第五・金岡・静浦・静浦西・静浦東・大平・原・清水・長泉・長泉分校・内浦・小下田・八木沢・西浦・江梨分校・盲・聾の19校。
中学校: 沼津第一・第四・第五・静浦・沼津学園・原・大平・深良・富岡・長泉・西浦・西豆・盲・聾の14校。
高等学校: 沼津西・沼津農業・裾野・裾野定時制・沼津・沼津学園・韮山の7校。(計40校)
遠隔地の学校では、船に乗って現地に宿泊をしながら教科書の販売をしていた。
昭和20年代の半ばには、土肥町の小・中学校の供給は地元の書店に移ったが西伊豆の受持校は、昭和40年代まで続けてきた。
当時の人々の生活物資は充分ではなく、贅沢な暮らしは出来なかった。車の普及も少なく、労働もきつかった。しかし働く事によって未来に向かっての期待と希望がつながっていた。

昭和30年(1955)~昭和39年(1964)

高度経済成長期を迎えて

戦後10年が経過した。この10年間は日本の経済が高度成長をなしとげ、皇太子と美智子様の結婚。東京オリンピックの開催。東海道新幹線の開業や高速道路が開通し、マルサン書店も出版業界も大きく飛躍した時代であった。
昭和30年(1955)3月平凡社より世界大百科大事典(全32巻)が発行。岩波書店より広辞苑が発刊され12万冊のベストセラーとなる。
        8月沼津アーケード街の完成
昭和31年(1956)新潮社より、〝週刊新潮〟が創刊。これは出版文化史上の快挙と言われ、週刊誌といえば新聞社による発行(週刊朝日)のものに限られており、週刊誌
        は新聞社にしか発行出来ないものと思われていた。以後、出版社による週刊誌が続々と誕生した。
昭和32年(1957)西武百貨店オープン
昭和33年(1958)皇太子と正田美智子様のご結婚
昭和35年(1960)日本図書普及株式会社の設立により〝全国共通図書券〟が発行される。(※昭和44年 ビール券発行!!)
昭和36年(1961)7月14日、河合楽器製作所と契約をしピアノやオルガンの販売を開始。
        『ヘルパー制の導入』家庭の主婦の力を借りて、本や雑誌の配達を手助けしてもらう当時としては画期的であった。
昭和37年(1962)国立沼津工業高等専門学校が開校。
昭和38年(1963)4月より、小学校一年生の教科書は国費で賄う無償供与になる。翌年、小学三年生までとなり、中学までの無償となる。
        10月牛臥倉庫の建築


昭和40年(1965)~

出店ラッシュ(外商部の移転)

昭和40年に入っても、国の経済成長はそのまま続いた。
30年代に完結した百科事典の全巻セット販売に続いて、出版社からは新企画が続々と発表されて空前の全集ブームとなった。

昭和40年(1965)10月16日 外商部門を切り離して本店の近くへ引っ越し。
        12月2日 マルサン書店富士急店OPEN (1号店)
        この年の記録に〝ノート式の卓上日記〟の無償配布と有。※実際には30年代半ばから配布がはじまった。
昭和41年(1966)磁石式専用電話の設置。
        8月 土肥町の教科書供給が終了。
昭和42年(1967)2月 河出書房新社にハワイ旅行を招待してもらう。
       8月 外商部2度目の移転。
       デュプロ製の印刷機の導入。
昭和43年(1968)4月1日 マルサン書店長泉店OPEN(2号店)
       6月15日 静岡教科書株式会社設立。嗣郎社長が常務取締役に就任。
       10月28日 林作死去。(83歳)
       11月27日 マルサン楽器設立。
昭和44年(1969)沼津東高校、沼津女子高校(現加藤学園)、清水南小、沼津大岡中、第三中の5校が受持校に加わる。
       5月1日 マルサン書店仲見世店OPEN(3号店)
       8月15日 天城高原の別荘地に〝天城寮〟開設。(現在は廃墟なので、社員の一人が改装検討中)
昭和45年(1970)5月5日 本店に教育相談室の開設。
       11月 三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊内でクーデター後、割腹自殺。
昭和46年(1971)4月 香貫小と大岡小が教科書受持校に加わる。
昭和47年(1972)4月28日 外商部3度目の移転。(現 本社・外商部 沼津市高島本町13-4に引っ越し)
       5月 本店にて〝たばこ〟の販売をスタート。(平成8年9月で中止)
       9月 正味引き下げストライキ(9/1~9/12)により、手数料が2%UP
昭和48年(1973)7月1日 マルサン書店駅ビル店OPEN(4号店)
       長泉北小が教科書受持校に加わる。
       10月 中東戦争勃発し、オイルショックが起こる。この頃、出版社招待の海外旅行が横行した。
昭和49年(1974)4月30日 マルサン書店富士吉田店OPEN(5号店)
昭和50年(1975)2月 創業記念日の制定。『2月1日』とした。
昭和51年(1976)12月 マルサン書店宝塚店OPEN(6号店)
昭和53年(1978)1月31日 マルサン書店仲見世店 閉店
昭和56年(1981)12月4日 マルサン書店サンテラス駿東店OPEN(7号店)
昭和57年(1982)1月19日 マルサン書店金岡店OPEN(8号店)
       7月 外商部に日立製のコボル言語でプログラミングされた買掛管理システムを導入。(総額1.554万円)
昭和60年(1985)5月20日 (株)新学社と契約し〝月刊学習誌ポピー〟の販売開始(現在は販売していません)
       8月5日 FAX2機の導入。(本店と外商部)
昭和62年(1987)7月1日 マルサン書店徳倉店OPEN(9号店)
昭和63年(1988)2月2日 古澤徳三が社長就任。

昭和64年(1989)昭和天皇の崩御により年号が『平成』となる。

平成へ

平成元年(1989)4月1日 消費税導入 3%
平成2年(1990)7月1日 マルサン書店長泉店 移転OPEN
平成4年(1994)創業90周年記念
平成6年(1994)12月1日 古澤隆社長就任。12月9日 マルサン書店富士店OPEN(10号店)
平成8年(1996)10月10日本店リニューアルオープン(1/22~27アメリカ西海岸書店視察)
平成9年(1997)4月24日 マルサン書店サントムーン店OPEN(11号店)
平成10年(1998)本店閉店。【63年間の歴史に幕】宝塚店も閉店。
5月15日仲見世店開店。(12号店)3月31日 長泉店撤退。
平成11年(1999年)11月4日 新長泉店開店。(ウェルディ内)(13号店)
平成12年(2000年)ニューヨーク書店事情研修。7月9日富士急店閉店。
平成14年(2002年)1月31日 徳倉店閉店。4月金岡店閉店。4月27日新富士急店(マンガフロンティア)開店。(14号店)
平成16年(2004)駅ビル店閉店。
平成17年(2005)富士吉田店閉店。
平成18年(2006)サンテラス店閉店。駅北店開店。(15号店)
平成19年(2007)新富士急店(マンガフロンティア)閉店。
平成22年(2010)イシバシプラザ店開店。(16号店)
平成23年(2011)新長泉店閉店。(ウェルディ内)
平成25年(2013)10月1日 消費税 8%
平成29年(2017)イシバシプラザ店閉店。
平成30年(2018)富士店閉店。仲見世店3F閉鎖。       

令和

令和元年(2019)10月1日 消費税 10%
令和3年(2021)仲見世店2F閉鎖。
令和4年(2022)5月31日仲見世店閉店。
7月1日 本社・外商部設立(旧外商部 沼津市高島本町13-4)
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